2010年01月

2010年01月29日

2009シルクロード便り(8) ロシアの母なるヴォルガ 高澤明敞

ヴォルガへの胸の高鳴りは旅に出る前から大きかった。

ステンカ・ラージン、船を曳く労働者、鞭打たれ船を漕ぐ徒刑囚。歌や民話を通じて伝わってくる「ロシアを象徴する大河」が少年の頃から胸に深く刻まれているからだろうか。

カスピ海北岸のアストラハンでヴォルガ河口に接した時は、期待が大き過ぎたせいか思ったほどの感動は無かったのだが、「とうとうここまで来たか」としみじみ思った。

それにしても、アジアとヨーロッパの境界線だというウラル河もそうだったが、大陸の河はでかい。滔滔と流れる姿には呑み込まれそうな豊かさが迫ってくる。    

 

写真1 朝ぼらけのヴォルガ

写真2 ヴォルガ夕景朝ぼらけヴォルガ残照



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2010年01月13日

読書のお薦めです       小林正英

倒壊する巨塔 アルカイダと「9.11」への道 上・下

 ローレンス・ライト 著 白水社 20097

 

 アルカイダ総集編とも言える著作である。原著は2006年初版であるが、3年経過して、日本語訳版が出版された。合衆国新政権がアフガニスタン支援軍増派の決断をしたが、その背景を理解するには良いタイミングかもしれない。

「9.11」直後にこのテロの首魁を草の根を分けてでも探しだす意気込みで、

アフガニスタンに侵攻したアメリカ。ビンラディンは今どこで何をしているのだろうか?

 物語は1950年にさかのぼる。敬虔なイスラム教徒であり、文学者であり、国立大学教授でもある中年のエジプト人、ザイーブ・クトゥブが大戦後まもないアメリカ合衆国へ留学するところから始まる。彼は東部、西部の大学で学生として講師として、また地域の住民と交流して戦後のアメリカ文化を身をもって体験する。その結果故国のエジプトはこうであってはならない。イスラム法を厳格に順守する神権国家を目指すべきであると。帰国した彼はその考えを学界や著述活動を通じて推し進める。丁度そのころクーデターで王制から政権を奪ったナセルの世俗主義に抗して弾圧を受け、後に処刑されてしまう。しかし彼の思想は後のイスラム急進主義者(原理主義者とは言わない)に大きな影響を与えるのである。

 二番目に登場するのが、エジプトの名門一族(医学、建築、司法界にて)に生まれたアイマン・ザワヒリである。秀才の彼はカイロ大学で医学を学ぶと同時にクトゥブの影響を受け、急進的な反政府組織「ジハード団」を結成して、

真のイスラムエジプト国家を目指して活動を始める。弾圧に続く弾圧をすり抜け一時サウジアラビアに於いて医者として活動する。そこで宿命のビンラディンに出会う。時はソ連共産軍がアフガニスタンに侵攻しており、ムスリム抵抗組織としてムジャヒディンが戦っていた。周囲のイスラム諸国は資金援助・義勇軍(これが又理想主義者、思想的問題児、冒険出たがり屋と様々)の派遣等混沌とした世情であった。サウジアラビア王室は特に彼らの支援に熱心であった。1980年台後半のことである。

 ここにビンラディンが登場する。偉大なる父親はイエメン人であるが、才覚と努力で建設事業で成功し、サウジアラビア王室の全面的な信頼を得て大富豪となる。ウサマ・ビンラディンはその七番目の目立たない息子であった。

10代後半で熱心で純粋なイスラム教徒として、アフガニスタンのムジャヒディン支援のジハード義勇軍として参加する。というより巨額の資金援助をもたらして、ひどく歓迎されたと言うのが事実らしい。その資金を活用して軍事訓練基地(普通名詞のアルカイダ)を整備して行く。何度かサウジとアフガニスタンを往復するが、そうこうしているうちにソ連軍は撤退してしまう。替わって起こったのが同じイスラム教徒どうしの内戦である。一体イスラムの大義はどうなったのだ。

 そこでビンラディンは、シャリーア(イスラム法)に基づく純粋なイスラム国家建設を推進する運動を実施するため活動の舞台をスーダンのハルツームに移す。そこにはイスラム共同体を標榜する大風呂敷を広げた、若干胡散臭い聖職者ハッサン・トラビがいた。ここで始めてアルカイダは普通名詞(基地)からビンラディンの活動組織の固有名詞となる。一方エジプトでは、イスラエルと単独講和を結んだアラブの裏切り者アンワル・サダトがイスラム急進派に暗殺され、引き継いだムバラクが猛然と急進派の弾圧に走る。いたたまれなくなって、あのジハード団のアイマン・ザワヒリもこの地で活動するようになる。この間、あのイラクからクウェートを奪還するための湾岸戦争が発生し、サウジアラビアは急速にアメリカに接近し、アメリカ軍に基地を提供する。これに対してビンラディンは故国のファハド国王を猛烈に非難攻撃する。アメリカ資本(アラムコやベクテル等)と結託して私服を肥やし、人民を圧迫し、あげくの果てに異教徒の軍隊を駐留させるとは。国王は怒ってビンラディンをスーダンから追い出さないと、資金援助を行わないとハッサン・トラビに告げる。トラビは、折から内戦中のアフガニスタンで台頭著しいタリバンを率いるオマル師に身元引受を依頼する。持っていた資産も全部放出させられ、数十名の部下とともに、若い頃活躍したアフガニスタンのジャララバードに身を寄せる。37歳の彼にとっては人生最悪の時期となった。そしてザワヒリもスーダンを追い出されてアフガニスタンで起居するようになる。

                                       続く



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読書のお薦めです(続)     小林正英

アルカイダの系譜 続き

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イスラエルを支援し、純粋なイスラム世界に不幸もたらす、アメリカ。

ここにビンラディンのアルカイダは全面的にアメリカに宣戦布告するのだ。それに呼応して各地で様々なグループによる自爆テロが続発する。

しかし客人として呼んだつもりのビンラディンに、あまり勝手な真似をして欲しくないオマル師も、1997年にCNNが行ったビンラディン独占TVインタビューには頭に来た。そして彼とアルカイダをカンダハール近郊の自分が目の届く場所に押し込めてしまう。そんなことにへこたれるビンラディンではない。ザワヒリその他の急進派と謀って「ユダヤ・十字軍にたいするジハードのための国際イスラム戦線」をぶち上げて世界中に発信してしまう。合言葉は「アメリカ人を殺せ」だ。その結果義勇兵・義捐金がワンサと集まってビンラディンは有頂天に舞い上がる。そして初のアルカイダの独自作戦と言われる、1998年のケニヤとタンザニアでのアメリカ大使館を標的とした同時自爆テロが実行される。

 ここまで来るともうアメリカも黙ってはいられない。CIAFBIもこの組織をマークして行動に移る。しかしそれぞれのカルチャーの違い(CIAは問答無用でターゲットを排除する。一方FBIはターゲットを検挙して法で裁く。)から共同作業は上手く行かない。そして更にNSA(国家安全保障局)はホワイトハウスに報復攻撃を提言し、クリントンはこれを許可した。かくして、スーダンの化学兵器製造工場と思しき施設(全く関係なかった)とアフガニスタンのテロリスト訓練キャンプに一発10億円もする巡航ミサイルが約80発ほど打ち込まれた。攻撃の成果は上がらず、結果としてビンラディンは反米ムスリムの英雄として一挙に世界中で名声を高めてしまった。

 アルカイダの訓練キャンプは隆盛を極め、あらゆるゲリラ戦設備、優秀な教官をそろえ図書館まであったという。1990年代後半にここで訓練を受けた人員数は一万から二万と言われ、その多くは欧米で高等教育を受けた理工系や医学系の若いムスリムであった。彼らは祖国を離れてキリスト教文明の地でそれなりの成果をあげているにも関わらず現地に溶け込めず、認められず、寂寥感にさいなまれていたのだ。訓練ではアルカイダの世界観、理想として掲げる人生の目的を吹き込まれた。

1)  地上に神の統治を確立する。

2)  神の大義の中で殉教を達成する。

3)  腐敗の諸要素をそぎ落とし、イスラムの人々を純化する。

そして彼らの敵は、異端者(世界中のムバラク達)、シーア派、アメリカそしてイスラエルである。

そうした若者の中にモハメド・アタをはじめとするハンブルグ在住の四人組がいた。訓練中にビンラディンと航空機によるテロ作戦が話し合われたという。

1999年秋にこのハイジャックした航空機による同時多目標攻撃作戦にGOの命令がくだる。ビンラディンはこのハンブルグ組ともう一組の戦士たちを組織する。航空機の操縦はもとより英語もまともにできない彼らにこんなことが可能だろうか?しかし作戦は開始された。時間はかかろうとも。200010月イエメンのアデン港に停泊中のアメリカ海軍の新鋭イージス駆逐艦コールがアルカイダの自爆攻撃を受け、屈辱的な損害を被る。この勝利でビンラディンの評価は高まるばかり、イスラムの篤志家からの義捐金で資金にも余裕ができる。

タリバンとの関係もオマル師のアメリカ不信と二人の相性から奇妙な信頼が確立された。

 アメリカもこのコールの事件をもとに、のっぴきならない状況だと判断してCIAFBIも必死に動き回る。この間クリントンからブッシュへと政権交代。CIAは新大統領安全保障担当補佐官コンドリーザ・ライスにアルカイダの危険な攻撃が迫っている事を説くが、彼女は取り合わず対応のプライオリティーを下げてしまう。計画は中央、実行は現場任せというアルカイダの作戦思想、と殉教者による殺戮と破壊が目的となると、アメリカのテロ対策グループも従来の捜査手法では対応しにくいのだろう。結局2001911日のアメリカ同時多発テロは起こってしまうのである。ビンラディンはアフガニスタンの基地でラジオ放送を通じて、予想をはるかに上回る成果を喜ぶ。翌月アメリカ・イギリス合同による空爆でアルカイダ基地は壊滅し、100人余の兵士たちが失われる。その後アフガニスタンの北部同盟軍、米英その他の外国連合軍に追われ、ビンラディンやザワヒリを始めとする生き残ったアルカイダの戦士たちはパキスタンへと逃れて行く。

   ここで物語は終了する。多くの制約の中でこの物語を纏めた作者に敬意を表する。

 折しも(200912月)デトロイト上空でデルタ航空の定期便を爆破する自爆テロ未遂事件が起こった。容疑者は英国で工学を学ぶナイジェリア人の裕福な学生だと言われる。2001年の同時多発テロの立役者モハメッド・アタの系譜は10年経た今も脈々と世界各地で引き継がれているのだ。そもそも世界の人々が等しく求めていると、アメリカが吹聴する価値観「民主主義、人権、政教分離」など、シャリーア(イスラム法)第一とする人々に受け入れられるはずは無いではないか。この争いは時を超えて強弱の差こそあれ、世界中で地域を変えながら果てしなく続くのだろう。

                                 以  上



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2010年01月06日

私の三十一文字日記(五)   牛島 照夫

2009年11月

 

2009年11月01日(日)

 神無月始まる朝は多摩に居て 鳥鳴くを聞き平安祈る 

2009年11月02日(月)

 ベゴニアの花の名問われ ネットにて検索すれば百花繚乱

2009年11月03日(火)

 文化の日晴れわたる多摩丹沢の 上の白富士美まし日の本

2009年11月04日(水)

 ニュータウン通り走行銀杏の樹 パンパスグラス秋を彩る

2009年11月05日(木)

 煉瓦坂ゆりの樹の道下る午後 秋たけなわの陽光浴びる

2009年11月06日(金)

 パルテノン大通りにはクリスマス ツリーが立って師走は近い

2009年11月07日(土)

 たらちねの母逝きしより十二年 在りし日偲び記念礼拝

2009年11月08日(日)

 紅葉と黄葉映える霊園で 愛し妹納骨の式 

2009年11月09日(月)

 入居より二十七年半経って 団地草取り秋は深まる

2009年11月10日(火)

 緊張の受診を終えて安堵して 明日は酒田と心に決める

2009年11月11日(水)

 一日をかけて北上新庄で 各停乗車酒田に至る

2009年11月12日(木)

 美術館小雨の中を訪ねれば 庭の紅葉心を洗う

2009年11月13日(金)

 十二万、人住む酒田市面積は 六百平方キロメートル余

2009年11月14日(土)

 十五万、人住む多摩市の面積は 二十平方キロメートル余

2009年11月15日(日)

 快晴の朝を迎えて西見れば 秋色深い丹沢の峰 

2009年11月16日(月)

 多摩市内最高地点ほど近い 公園内を林間散歩

2009年11月17日(火)

 はらからにお歳暮送りくじ引けば 赤玉二つ参加賞出る

2009年11月18日(水)

 雨降りて最高気温十度にて 二十四節気小雪近し

2009年11月19日(木)

 健康のチェックを受ける時多く 老骨なるを知らされる朝

2009年11月20日(金)

 晴れわたる大空のもと西の方 真白なる富士朝日を受ける

2009年11月21日(土)

 駅ナカの改装なって開店の 雑貨屋さんに賑わいがある

2009年11月22日(日)

 旧職場学園祭に人は寄り 同窓会で大いに語る 


2009年11月23日(月)

 雑件の処理に追われて晩秋の 日曜ひと日たちまち過ぎる

2009年11月24日(火)

 野にあって勤労感謝祝日は 現役時代跡を始末す

2009年11月25日(水)

 同期会興奮冷めず対話した 古き友の名四十余記す

2009年11月26日(木)

 疾く過ぎし四半世紀の前に出た 講究録の電子化進む

2009年11月27日(金)

 日に映えてメタセコイアの燃える様 車の中から楽しみて見る

2009年11月28日(土)

 新政府仕分け作業の最終日 $は八十六円余り

2009年11月29日(日)

 万葉の歌に詠まれた横山の 遊歩道行く多摩に住む幸
 

2009年11月30日(月)

 年末の挨拶状の宛名書く 印刷終えて次の課題に


 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

 

 「三十一文字日記、みそひともじにっき」は朝起きてからしばらくしてつけます。日記の前の日付は、日記をつけるときの日付です。

 

 昭和24年(1949年)4月から、昭和28年(1953年)3月まで、山形県酒田市で過ごしました。父の転勤に伴う移住です。小学校4年のはじめから中学1年の終わりまで、鳥海山と最上川に代表される山紫水明の地で暮らしました。戦後の食料難を意識せずに海と山の幸に恵まれました。酒田は私の心のふるさとです。

 

 前日になって決心して、卒業した酒田の小学校の昭和27年卒業同学年会総会へ飛び入り参加しました。「元気な時に、思い出を共有する人たちと共に過ごして、更なる思い出を作るべきだ」との思いがつのりました。

 

 総会の翌日は、小雨の中を、旧友の車に同乗して、本間美術館、旧本間邸、史跡鐙屋、酒田港内展望食堂、清水屋など、観光スポットの要のところを訪ねました。雨に映える本間美術館の紅葉は忘れられない美景になると思います。

 

 本間美術館の庭園の紅葉を写した続き写真二葉を添えます。風車の写真も加えます。酒田港港内展望食堂の対岸に見える風車の列の写真と優美な風車の姿の写真の二葉です。酒田は風の強い所としても知られています。

 

 酒田は歴史と人に恵まれたところです。江戸期には交易の拠点の港として栄えました。京、大坂、江戸と船で直結していました。現代の札幌、新潟などが航空機、新幹線で東京とむすばれ先端的であることに、江戸期の酒田が栄えたことが対応しているように思えます。

 

 松尾芭蕉も酒田を訪れ、その記事は「奥の細道」に残されています。近くは、おしんの奉公先の所在地として、ごく最近では、おくりびとの撮影地として、映像関係で知られています。人材は輩出し、江戸期の本間光丘、鐙屋惣左衛門等は、日本の産業史に残る人々です。明治以降には、阿部次郎、小倉金之助、の文、理、それぞれの分野での偉才が誕生し、近くは、土門拳、岸洋子などの芸術家の生地でもあります。

 

 同期の皆様、一度お訪ねになってみて下さい。ゆっくり時の流れることを実感出来る所です。


牛島1牛島2





      
          本間美術館の庭園

牛島3牛島4





 
          酒田港港内の風車

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2010年01月04日

沖縄返還核密約(続)    西 俊久

沖縄返還密約に関し契約の原文を示してほしい
旨のご要請がありましたので、以下に新聞の
写真沖縄密約(英文)版を掲載します。
沖縄密約(和文)






   原文            和訳文 
(それぞれの写真をクリックすると拡大されます.
更に写真の右下のマークをクリックすると大きく
拡大して読めます。)

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